Cupful of Rabbit

主にごちうさの話をするブログです

C93どうびじゅ本「桃色、黄色、とうめい、はいいろ」の感想 その1

 

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くろば・U先生のどうびじゅ本「桃色、黄色、とうめい、はいいろ」の感想です。

 

ネタバレ無しの感想(主に購入を迷ってる方へ向けて)ですが、まず60Pという厚さや作品の内容等から伝わるくろば・U先生のどうびじゅに対する熱量。また、タイトルの「…とうめい、はいいろ」の不穏な雰囲気の通り、くろば・U先生らしい展開。

この記事に辿り付くほど興味があるなら是非、としつこいくらい勧めたいです。

特に「くろば・U先生のお話が好きな人」と「どうびじゅの黄桃を拗らせてる人」、どちらかを満たしているような方は絶対どうぞ。

とらのあな通販ページ(http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/60/15/040030601555.html

 

 

以下、ネタバレありです。

 

 

 

まずは、1P目から。

 

この作品を構成している大きな要素の一つだと僕が考えている、辛い現実が早速描かれています。(もっともこの場合は過去と表すべきかもしれませんが、状況としては現在も変わっていません。)

ただ両親に褒めて欲しかっただけ。満たされなかったのはそれだけなのに、黄奈子の心にはいつもそれがこびり付いています。

 

このプロローグ(?)のタイトルは「沼の底」です(二章タイトルページのひとつ前のページの右下に書いてあります)。

僕は、このタイトルは「沼の底(にある黄奈子の欲望)」という意味ではないかと考えています。

 

もし、両親がこのタイミングで「おめでとう、よくがんばった」と言ったら? もし黄奈子がこのタイミングで褒めてほしいと言うことができて両親がそれに応じたら?

彼女の美術に対する姿勢も大きく変わっていたのかもしれない、というのは分かって頂けると思います。

 

「底」とは、黄奈子の、最も幼い時期に満たされなかった欲望のこと。

そして、「両親からの押し付けに抵抗したら嫌われる」という感情(思い込み?)はまさに「沼」そのものなのではないか、と思えるのです。

 

 

次に、第一章の桃色について。

 

桃音「黄奈子ちゃんすごいです!」

先述した黄奈子の欲を(両親ではないが)桃音が満たしてくれています。

過去とは違い、現在は自分を満たしてくれる者が存在している…黄奈子にとって桃音とは特別な存在であり、そのような存在と一緒にいられる高校生としていられる時間というものはかけがえないものなのでしょう。

 

そのあと桃音一人になって、将来のことを考え始めます。

「みんなと一緒だから美術科に居る」

これは高校生活を美術科で過ごす理由にするには、あまりに幼稚で不十分です。

「仲がいい友達が○○高校行くからってそれについていくのはやめなさい。自分でしっかりと考えなさい(結果一緒になるならしょうがないが)」みたいなことはみなさんも高校受験とか中学受験とかで親に言われたことがあるかもしれません(僕はある)。

桃音の現状は、まさしくそれなのです。

桃音の美術科にいる理由は、美術そのものとは何も関係をもっていないのです。

まるで「みんながいなければ美術科にいなかった」ような。

美術が好きなのは最低条件で「美術を通じて何かしたい」という強い意志がなければ美術科入学なんて難しいと思います。

しかし、桃音は願書のミスで間違えて入学しただけ。

美術が特別好きでもないし、何かしたいという将来の具体的な目標もないのです。

 

そして、それを桃音はしっかりと問題として認識はできているんですね。

 

でも、これで本当に大丈夫だろうと思ってしまって。

本当に間違いでここにいるのだとしても、桃音は確かな幸せをここで感じてしまいます。

 

 

次に、第二章の「黄色」(すこし色が淀んでいる気がする)。

 

「黄奈子は桃音と一緒にいれば楽しい。ずっとここに居て欲しい。自分が美術科に通う意味になってほしい」でもそれは「黄奈子の望むもの」であって桃音の望むものと一致するとは限らない。そもそも、桃音という「他人の人生」に自分はこうしたいという欲を「理想を押し付ける」。

まるで、黄奈子自身の両親のよう。

自分を苦しめていることを他人にまでするつもり?

 

『違う。両親と一緒じゃない』

 

最後に、桃音と黄奈子の合作が描かれています。

桃音が黄奈子が家に帰った後でも、これを見て私を思い出してください、と渡したもの。二人の友情の象徴のようなものでもあります。

 

黄奈子が、美術科にいる桃音の存在自体を黄奈子自身が美術科に居る意味にしてしまうと、今度は桃音が掴みうる最大限の幸せを手に入れることが出来なくなってしまう。

それを知っているし、そのようなことはしたくないからこそ……

 

黄奈子の回答はラストに描かれます。

 

 

そして、これもここで書いておきます。

黄奈子にとっての辛いことのひとつである、両親からの束縛。

これは、黄奈子が「押し付け」という言葉で形容している部分のことです。

さまざまな場面で描かれていますが、黄奈子は自分の人生に美術という興味も無いようなものを押し付けてくる両親のことを、実は憎んではいないんですね。嫌いではないんです。

むしろ、両親のことが好きだからこそ、この束縛から一瞬たりとも抜け出せないのです。

「人生押し付けてくるような親を好きになれるか?」と聞いたら大抵の人は「いいえ」と答えるでしょうが、黄奈子は違います。

彼女が美術科に入った理由のひとつとして「両親に嫌われたくないから美術科に入った」というのは原作でも描かれていたことです。

黄奈子は、両親が自分を好きでいてもらいたいのです。

 

次の美術展シーン。

 

二章のサブタイトルは「人魚」。

ここで、水槽の中に鏡があってその映り込みでバーチャルお魚体験的な美術品(黄奈子談)の前に立ちます。

 

作品名は「ありえた己の姿」。

 

黄奈子は桃音にお魚体験的作品だと解説します。

作品の見方は人それぞれであるにも関わらず、黄奈子は自分が桃音にこれが一般的な見解だと「押し付け」ているように思えてしまって。

もちろん、両親=現在の黄奈子で幼少期黄奈子=現在の桃音なんですが、(文脈で理解も出来ますけど)このことを漫画らしい方法で描いていますね。

鏡をはさんで、上段のコマが桃音の見ている世界で、下段の暗い世界は黄奈子の見ている世界という構造になっているんです。

 

そして黄奈子が、鏡に写って見えていたものは、桃音の隣に立つ自分ではなく、囚われた子供に押し付けつづける悪魔のような存在。

 

ありえた己の姿は、黄奈子が抱いている「両親のようになってしまっているのではないか? 両親のやっていること=自分が桃音にしていること、なのでは?」という疑問と不安を写したものだと僕は考えています。

 

 

(これはよく分かって分かってないんですが、冒頭の不安の人(足が逆になっているアレ)と逆に貼られた足跡って桃音と黄奈子に対する何かの暗示なのでしょうか。それともそういう作品があるのでしょうか。)

 

 

 とりあえずここまで。

その2を書いていて「ちょっと解釈違ったかな」と思った箇所があったら更新します。

 

最後まで閲覧ありがとうございました。

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